忘れてはならない。。8・22対馬丸の撃沈

おはようございます。
昨日、8月22日は沖縄にとって忘れてはならないもう一つの日。。
1944年8月21日に那覇を出向した疎開船「対馬丸」が翌22日にアメリカ軍の潜水艦によって
撃沈され、1,418名(氏名が判明している分)の命が犠牲になりました。




*対馬丸記念館のHPより抜粋させていただきました
(ここから)
1. 対馬丸撃沈事件とは
(1) 背景

1941年12月にはじまったアジア太平洋戦争。翌年の夏から日本軍は敗戦を重ねるようになり、1944年7月7日、ついにサイパン島が占領されました。「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供・女性を島外へ疎開させる指示を出します。
予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人。しかし県民の疎開はなかなか進みません。「勝つ、勝つ」を繰り返す軍の言葉に、沖縄が本当に戦場になるのか判断がつかず、また周辺海域の危険をそれとなく知っていた県民にとって、船に乗ることは一つの「賭け」でした。7月19日、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し学校単位で疎開事務をすすめます。多数の兵士が沖縄に移駐し大量の食糧が必要になり、足手まといになる民間人を県外へ移動させることは急務だったのです。いっぽう子ども達は「ヤマトへ行けば汽車にも乗れるし、雪も桜もみることができる」と修学旅行気分ではしゃいでいました。
(2) 対馬丸の出航と撃沈、漂流、救助
対馬丸(6754トン)は、1944(昭和19)年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じように疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し出航しました。しかし翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈められてしまいます。建造から30年も経った老朽貨物船・対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的だったのです。
ほとんどの乗船者は船倉に取り残されましたし、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波にのまれました。犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)。イカダにすがって漂流した人々は、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、奄美大島まで流されるなどして生き延びたのです。
(3) 「対馬丸」のその後
救助された人々には「箝口令(かんこうれい)」がしかれ、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁じられました。犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族に正しい情報が伝わることはありませんでした。また対馬丸事件の後、10月10日には那覇を中心に大空襲があり、翌年の地上戦では県民の4人に1人が犠牲になるなど、さらなる戦争被害を被ったため、対馬丸撃沈事件が知られるようになったのは戦後しばらく経ってからでした。大人が起こした戦争の為に理不尽にも幼い子どもたちがその犠牲になったことから、戦後「“学童疎開船”対馬丸の悲劇」として語られるようになっていきました。
(ここまで)
私の義理の祖母もまだ小学生で、当時対馬丸に乗る予定でした。
そして当日、何かの偶然で対馬丸に乗ることができず、
対馬丸と一緒に出航する別の船に乗り、生き延びました。
僕は小学校の時にこの対馬丸をテーマにした映画を学校で観ました。
その時の事は今でも鮮明に覚えています。
そして、これが沖縄との初めてともいえる接点でした。。
大人達によって引き起こされた戦争、
そして、その大人達の都合で生まれた沖縄を追い出される状況に追い込まれ、
亡くなっていった子どもたち。。。
沖縄では、地上戦はもちろん、それ以外でも悲惨な事がたくさんあります。
これらの犠牲は、沖縄が日本本土を守る盾になるべくして引き起こされました。
亡くなった子ども達、そして関係者みなさまのご冥福をお祈りします。