【No.1104】 牛のように
僕の好きな高村光太郎の「 牛 」という詩です。
突っ走るのではなく、派手な花火を打ち上げるのではなく、
今の僕にとって、この牛のような歩みが大事だと考えているところです。
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「 牛 」 高村光太郎
牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐことをしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はって行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是でも非でも
出さないではいられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は跡へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしゃらではない
けれどもかなりがむしゃらだ
邪魔なものは日本の角にひっかける
牛は非道をしない
牛はただ為たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなって為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
自然を信じ切って
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み食ひ込んで
遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちゃんと知っている
牛は食べたものを又食べながら
ぢっと寂しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやっぱりもうとこたへる
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立ってもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちゃを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢっと見る
見つめる
きょろきょろときょろつかない
眼に角も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとっての努力ぢゃない
牛にとっての当然だ
そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならないときしか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしている
生命をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は きれ離れのいい手際だが
牛の力はねばりっこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の刃にかかる時でも
十本二十本の槍を総身に立てられて
よろけながらもつっかける
つっかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えている草を食ふ
そして大きな体を肥す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持った大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く